ベルリンの空の下で考えた世界の矛盾
この夏は久々に、ひと月ほどヨーロッパで過ごした。主人が半分ドイツ人ということもあり、親戚たちにも会ってきたが、ベルリンで神父をしている義理伯父との話は、忘れられない経験となった。伯父は戦争を経験している。10歳になるまで、ナチスが当たり前だった世界に生きていた彼が静かに語ってくれたのは、人の「常識」の恐ろしさについてだ。彼は今、世界のあちこちで見え隠れする様々な矛盾に、少年時代に感じたナチスという体制への矛盾を重ね、人の世の行方を案じている。
疑うことを許されない「常識」は狂気である
伯父の少年時代のドイツは失業者で溢れ、治安の悪化などが進む苦しい状況にあった。ナチスは民族の誇りを掲げ、不景気からの脱却を約束する救世主のような存在でもあった。しかし、その狂気に人々はすぐに気づき始めた。――「何かがおかしい」。そう感じていた人は大勢いたはずなのに、「ナチス」という常識は、まるでそれを疑うことが許されないかのように社会に浸透してしまった。
伯父は「疑うことの許されない常識は狂気である」と語る。そして、その狂気は今、世界のあちこちで見られると話す。例えばアメリカだけでなく、ヨーロッパのリベラル派の中には、トランプ大統領にナチスの指導者を重ねることがある。かつてドイツがそうであったように、失業者が溢れるアメリカの保守州においては、トランプ大統領はまるで救世主なのだ。しかし同時に、トランプ大統領に反対する人たちは彼を独裁者扱いする。しかし、ここで伯父は語るのだ、「常識を疑え」と。
扇動されて出来上がった「常識」は、真の常識とは言えない。ナチスがそうであったように、リベラル、保守は政治体制のひとつである。その政治体制や思想に支配されすぎて、疑うことを許されない「常識」が出来てしまった時、それは狂気にも成りえる。ポピュリズムを批判する人は多いが、批判する人が妄信する政治体制の中にもポピュリズムは浸透している。どれだけの人がこの矛盾に気づいているのだろうか――伯父は疑問を投げかけた。
日本は令和の世を迎え、奇しくも先月には参院選が終わったばかりだ。この時代の変わり目、世界の流れの中で、私たち個人は、今、どんな未来への選択をすべきなのだろうか?
青山学院大学卒業。コマーシャルなどの映像コーディネーターを経て1998 年、宝塚歌劇団香港公演の制作に参加。その後プロデューサーに転身。株式会社MJ コンテスほか複数企業の代表として、ネバダ州立大学公認のピラティススタジオ日本進出事業や各種研修事業、2007 年に行われた松任谷由実の 「ユーミン・スペクタクル シャングリラⅢ」をはじめとする国内外の舞台・イベント制作など、さまざまな事業を展開。これまでにベストセラー数冊を含む70以上の書籍、DVD 作品を企画、プロデュース。現在も様々な事業を展開しながら“Go Tiny”(大切なものが、すべて半径5メートル以内にあることに気づこう!の意)というライフスタイルの提案も展開中。